アラフィフ★シングルの自分整理

飽きっぽい、世の中に疎い、短期記憶ヤバイ、こんな悪条件でもなにかできるかな?ようやく自分を見つめなおす気になった。自分の心の中を整理してみることから始める。

膠芽腫(こうがしゅ)という脳の病気

母の病気は脳の癌で膠芽腫または悪性リンパ腫と言うものだった。今年の1月の1日からだんだん悪くなり2日の夜中にベッドから降りて畳に座り込んでいた。それから抱えてベッドに座らせることもできなかったので畳に布団を敷いてそこに寝かせた。それから朝になっても母は起きることができず寝たままの状態で反応もない。さすがにこれはおかしいのではないかと思い始め病院に連れて行ったほうがいいか担当のケアマネジャーに相談した。ケアマネジャーは介護タクシーで行くことを勧め私は介護タクシーを呼んだ。結構体の大きい母なので運ぶのも大変でタクシーの運転手さんが親切に担架に乗せてくれ何とか一緒に運んだ。タクシーに乗って脳外科の個人病院に行くとCT検査を受け、先生に呼ばれた。そこで先生が言うにはいつからこの状態なのか、こんな状態でそのままにしていたのか、あなたはケアマネジャーなのにおかしいと思わなかったのか、など攻められた。私は新米ケアマネですとちょっと言い訳をしながら心の中はざわざわと波打っていた。その先生は検査の結果、脳に異常は全くない、ご飯を食べてないのに血糖値がものすごく高いから内臓に問題があるはずだ。別の病院で診てもらいなさいと言った。私は恐る恐る紹介状を書いてもらえますかと尋ねた。そこからその病院から救急車を呼んでもらい救急車で医師会病院へ行った医師会病院ではまた検査を行い様子を見ながら治療していきますと言うことだったが、1日経って次の日の朝、私の携帯に電話があり病院にすぐ来てくださいとの事だった。急いで病院に行くと脳に異常が認められる、腫瘍のようなものが認められるので県立病院に行った方が良い、すぐに行った方が良いと言われ、そこからまた救急車で県病院に行った。MRIの検査など行い、脳外科の若い先生によると脳に腫瘍ができており悪性のものと思われるが、手術して検査してみないことにははっきりとした事は言えない高齢であり手術のリスクも大きいし、原因をはっきりさせたとして、抗がん剤の治療は過酷、治療したとしても治る見込みはない、どうしますかと言われた。どうしますかと言われても返事に困る。とりあえず入院して経過を見ることになった。私は前から母に対しても自分に対しても延命治療はしたくないと思っていたので延命治療はしないと言う選択をした。治療しないという事は病院にはいられない、なのですぐに転院することを勧められる。緩和ケアや療養型の病院で最後を看取ってもらうという選択をした。転院したのは療養型の病院で寝たきりの人がたくさん入院していた。まさか自分の母がここに入院することになるとは思いもよらなかった。入院してここの病院の先生もどういう治療をしていくか、治療しないか、最後の時をどう迎えるか、ここをはっきりさせる。何も延命をしなかったら点滴も何もしなかったら1週間で命がなくなると言われた。1週間では心の準備ができない。なんと言っていいかわからず戸惑っていると先生は言った。とりあえず点滴だけしましょう今の状態はすっかり干からびている、点滴をして食べれる時は食べて食べれない時は無理して食べないで様子をみましょう、そうしたらあなたも自分が殺したと思わないで済むんじゃないかと言うようなことを言った。確かに延命はしないといっても命を途絶えさせたのは自分じゃないかと後から悩んだり後悔したりするかもしれない。先生の言葉に従うしかなかった。その病院に転院したのが1月21日ごろ、それから4月24日に亡くなるまで母は3ヶ月ほど生きた。この病気で1年生きるのは50%の確率、半年はもたない、余命はどのくらいなんだろうと考えても判断がつかなかったが最後の病院の先生が言った2ヶ月よりは少し長く生きた。もうほとんど最初の方からご飯も食べていなかったし1日1回だけアイスクリームのようなものを食べていた。最初の頃は話しかけると反応があったがどんどん反応もなくなりグーグー寝ていることが多くなった。洗濯物を取りに行ったりしていたけど姿を見る方が辛かった。1番最初に病院で病気の話を聞いた時は悲しくて涙が流れたけど、思い出すたびに涙が流れてきたけど、ニール・ドナルド・ウォルシュの「神へ帰る」と言う本に出会い、人間が死んだらどういう状態になってどこに行くのか、その後どうなるのかということを考え、その本を読んで死ぬのは悪いことじゃないのかもねと思った。だから母の死を自然と受け入れることができた。それから毎日の生活に忙殺され、母の死が近い事は分かっていたけど、お葬式の事やそれにかかる費用のことなどうやむやにして考えることもできなかった。その結果大変なことになってしまったんだけど。